2026/10/15
- 金久保製作所ブログ
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手元に、祖父が書いた原稿の束があります。
罫線の入った便箋に、鉛筆の縦書き。人前で話すために用意したものらしく、ところどころ線で消しては、横に小さく書き直してあります。一枚目の右上には「自己紹介 金久保」。
前回は、勤続66年の工場長と入社2年の若手の話を書きました。今回は、その工場がどうやって始まったのか。祖父の手記をめくりながら、たどってみます。

昭和26年(1951年)。祖父・金久保清重郎は、茨城から東京へ出てきました。
手記には、そのころのことが一行だけ書かれています。「最初は肩身のせまい思い」。どんな思いだったのか、それ以上は書いていません。ただ、その一行のあとには、機械の会社で働きはじめたことが続いています。
そして昭和32年(1957年)。祖父はその会社を辞めて、独立しました。場所は東京都北区神谷。旋盤1台から、機械部品の加工を始めます。
これが、金久保製作所の始まりです。
しばらくして、15歳の少年が二人、この小さな工場に入ってきます。のちに祖父から「工場長」「部長」と呼ばれるようになる二人です。
仕事は少しずつ増えていきました。それにつれて、神谷の工場は手狭になっていきます。
「どこか安くて広い所がないか」。祖父はそう考えながら、移転先を探していました。そんなとき、取引先の工場が埼玉の岩槻へ移るという話を耳にします。
手記には、そのときの祖父の考えがそのまま書いてあります。「まだ岩槻あたりなら土地も安いだろう」。
昭和42年(1967年)頃、祖父は仲間と一緒に、岩槻に土地を買いました。そして昭和51年(1976年)、工場も住まいも、そろって岩槻へ引っ越します。いまも本社工場がある、この場所です。
手記のなかで、私が一番好きな場面があります。
昭和55年(1980年)頃のことです。いまも長くお付き合いいただいているお客様と出会い、先方のご担当者が、岩槻の工場を見に来られました。
そのあとのことを、祖父はこう書いています。「ある日突然開眼する」。
何に開眼したのか。祖父が決めたのは、これでした。
高い機械でも、1年に1台は必ず入れる。
その2年後の1982年。金久保製作所に、初めてのマシニングセンタとNC旋盤がやってきます。旋盤1台で始めた工場が、コンピューターで動く機械を入れたのです。
手記には、こんな一文も残っていました。
私達の企業は年々新しい機械が生産されまして、それを年々買っていかないと、親工場又仲間にもおいて行かれてしまう
読んだとき、少し笑ってしまいました。いま私が設備投資のたびに考えていることと、ほとんど同じだったからです。
祖父のあとを継いだのは、私の父、武野谷富之です。
父は40歳まで、スーパーマーケットの店長をしていました。旋盤もマシニングも、まったく知らない世界です。そこから町工場に入り、1996年に社長になりました。
ところが社長を継いですぐ、工場長が1か月入院します。祖父の代から工場の中心にいた人が、突然いなくなったのです。あの頃は本当に大変だったと、父から聞いています。
その父が工場を大きく変えたのが、横形マシニングセンタでした。部品をいくつもの面から一度に削れる機械です。これを入れたことで、生産性がぐっと上がりました。ロボット付きの旋盤も、一台、また一台と増えていきました。
機械のことを知らずに入った父が、祖父の「1年に1台」を、そのまま続けていったことになります。
2021年、私が3代目として社長を継ぎました。
会社の沿革を見返すと、ほぼ毎年のように、何かしらの機械が入っています。5軸加工機、協働ロボット、そして今年2026年には複合旋盤。祖父が決めた「1年に1台」は、父の代を越えて、いまも続いています。
けれど、新しい機械ばかりが増えてきたわけではありません。工場の奥では、昔ながらの汎用旋盤や汎用フライスがまだ動いています。そして、それを動かしているのは、あの日15歳で神谷の工場に入った、工場長と部長です。
来年2027年、金久保製作所は創業70周年を迎えます。
旋盤1台から始まった工場は、いまでは32人が働く工場になりました。祖父が見たら、何と言うでしょうか。新しい機械の多さに驚くかもしれません。でもきっと、工場長と部長がまだ現役でいることのほうを、喜ぶような気がします。
次回は、私がなぜこの会社を継いだのか、そしてこれからどんな工場にしていきたいのかを書いてみます。
株式会社金久保製作所 代表取締役
図面を見て最適な工程を提案し、お見積もりから納品まで代表が直接対応。大手空圧機器メーカーをはじめ、多くの製造現場を長年支えてきました。